は桐《きり》の本箱の中に、日本紙へ活版で刷った予約の『八犬伝』を綺麗《きれい》に重ね込んでいた。
「健ちゃんは『江戸名所図絵』を御持ちですか」
「いいえ」
「ありゃ面白い本ですね。私ゃ大好きだ。なんなら貸して上げましょうか。なにしろ江戸といった昔の日本橋《にほんばし》や桜田《さくらだ》がすっかり分るんだからね」
彼は床の間の上にある別の本箱の中から、美濃紙《みのがみ》版の浅黄《あさぎ》の表紙をした古い本を一、二冊取り出した。そうしてあたかも健三を『江戸名所図絵』の名さえ聞いた事のない男のように取扱った。その健三には子供の時分その本を蔵《くら》から引き摺《ず》り出して来て、頁《ページ》から頁へと丹念に挿絵《さしえ》を拾って見て行くのが、何よりの楽みであった時代の、懐かしい記憶があった。中にも駿河町《するがちょう》という所に描《か》いてある越後屋《えちごや》の暖簾《のれん》と富士山とが、彼の記憶を今代表する焼点《しょうてん》となった。
「この分ではとてもその頃の悠長な心持で、自分の研究と直接関係のない本などを読んでいる暇は、薬にしたくっても出て来《こ》まい」
健三は心のうちでこう考えた
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