の会社で、そう重宝がられるはずがないのに。――健三の心にはこんな疑問さえ湧《わ》いた。
「姉さんは」
「それに御夏《おなつ》がまた例の喘息《ぜんそく》でね」
 姉は比田のいう通り針箱の上に載せた括《くく》り枕《まくら》に倚《よ》りかかって、ぜいぜいいっていた。茶の間を覗《のぞ》きに立った健三の眼に、その乱れた髪の毛がむごたらしく映った。
「どうです」
 彼女は頭を真直《まっすぐ》に上る事さえ叶《かな》わないで、小さな顔を横にしたまま健三を見た。挨拶をしようと思う努力が、すぐ咽喉《のど》に障ったと見えて、今まで多少落ち付いていた咳嗽《せき》の発作が一度に来た。その咳嗽は一つがまだ済まないうちに、後から後から仕切りなしに出て来るので、傍《はた》で見ていても気が退《ひ》けた。
「苦しそうだな」
 彼は独り言のようにこう囁《つぶ》やいて、眉《まゆ》を顰《ひそ》めた。
 見馴れない四十|恰好《がっこう》の女が、姉の後《うしろ》から脊中《せなか》を撫《さす》っている傍に、一本の杉箸《すぎばし》を添えた水飴《みずあめ》の入物が盆の上に載せてあった。女は健三に会釈した。
「どうも一昨日《おととい》から
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