の事も一所に纏《まと》めて考えなければならなかった。凡《すべ》てが頽廃《たいはい》の影であり凋落《ちょうらく》の色であるうちに、血と肉と歴史とで結び付けられた自分をも併せて考えなければならなかった。
 姉の家へ来た時、彼の心は沈んでいた。それと反対に彼の気は興奮していた。
「いやどうもわざわざ御呼び立て申して」と比田が挨拶《あいさつ》した。これは昔の健三に対する彼の態度ではなかった。しかし変って行く世相のうちに、彼がひとり姉の夫たるこの人にだけ優者になり得たという誇りは、健三にとって満足であるよりも、むしろ苦痛であった。
「ちょっと上がろうにも、どうにもこうにも忙がしくって遣《や》り切れないもんですから。現に昨夜なども宿直でしてね。今夜も実は頼まれたんですけれども、貴方《あなた》と御約束があるから、断わってやっとの事で今帰って来たところで」
 比田のいうところを黙って聴いていると、彼が変な女をその勤先《つとめさき》の近所に囲っているという噂《うわさ》はまるで嘘《うそ》のようであった。
 古風な言葉で形容すれば、ただ算筆《さんぴつ》に達者だという事の外に、大した学問も才幹もない彼が、今時
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