それも判明らんさ」
健三の子供の時分の記憶の中には、細君の問に応ぜられるような人情がかった材料が一つもなかった。
二十四
健三はやがて返事の端書を書いて承知の旨を答えた。そうして指定の日が来た時、約束通りまた津《つ》の守坂《かみざか》へ出掛けた。
彼は時間に対して頗《すこ》ぶる正確な男であった。一面において愚直に近い彼の性格は、一面においてかえって彼を神経的にした。彼は途中で二度ほど時計を出して見た。実際今の彼は起きると寐《ね》るまで、始終時間に追い懸けられているようなものであった。
彼は途々《みちみち》自分の仕事について考えた。その仕事は決して自分の思い通りに進行していなかった。一歩目的へ近付くと、目的はまた一歩彼から遠ざかって行った。
彼はまた彼の細君の事を考えた。その当時強烈であった彼女の歇私的里《ヒステリー》は、自然と軽くなった今でも、彼の胸になお暗い不安の影を投げてやまなかった。彼はまたその細君の里の事を考えた。経済上の圧迫が家庭を襲おうとしているらしい気配が、船に乗った時の鈍い動揺を彼の精神に与える種となった。
彼はまた自分の姉と兄と、それから島田
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