放棄されてしまった。

     二十三

「貴夫《あなた》どうしてその御縫さんて人を御貰《おもら》いにならなかったの」
 健三は膳《ぜん》の上から急に眼を上げた。追憶の夢を愕《おど》ろかされた人のように。
「まるで問題にゃならない。そんな料簡は島田にあっただけなんだから。それに己《おれ》はまだ子供だったしね」
「あの人の本当の子じゃないんでしょう」
「無論さ。御縫さんは御藤《おふじ》さんの連れっ子だもの」
 御藤さんというのは島田の後妻の名であった。
「だけど、もしその御縫さんて人と一所になっていらしったら、どうでしょう。今頃は」
「どうなってるか判《わか》らないじゃないか、なって見なければ」
「でも殊《こと》によると、幸福かも知れませんわね。その方が」
「そうかも知れない」
 健三は少し忌々《いまいま》しくなった。細君はそれぎり口を噤《つぐ》んだ。
「何故《なぜ》そんな事を訊《き》くのだい。詰らない」
 細君は窘《たし》なめられるような気がした。彼女にはそれを乗り越すだけの勇気がなかった。
「どうせ私《わたくし》は始めっから御気に入らないんだから……」
 健三は箸《はし》を放り出し
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