りに皿の中から撮《つま》んで食べた。……
「御縫さんて人はよっぽど容色《きりょう》が好いんですか」
「何故《なぜ》」
「だって貴夫《あなた》の御嫁にするって話があったんだそうじゃありませんか」
 なるほどそんな話もない事はなかった。健三がまだ十五、六の時分、ある友達を往来へ待たせて置いて、自分一人ちょっと島田の家《うち》へ寄ろうとした時、偶然門前の泥溝《どぶ》に掛けた小橋の上に立って往来を眺めていた御縫さんは、ちょっと微笑しながら出合頭《であいがしら》の健三に会釈した。それを目撃した彼の友達は独乙《ドイツ》語を習い始めの子供であったので、「フラウ門に倚《よ》って待つ」といって彼をひやかした。しかし御縫さんは年歯《とし》からいうと彼より一つ上であった。その上その頃の健三は、女に対する美醜の鑑別もなければ好悪《こうお》も有《も》たなかった。それから羞恥《はにかみ》に似たような一種妙な情緒があって、女に近寄りたがる彼を、自然の力で、護謨球《ゴムだま》のように、かえって女から弾《はじ》き飛ばした。彼と御縫さんとの結婚は、他《ほか》に面倒のあるなしを差措《さしお》いて、到底物にならないものとして
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