。彼自身はそれを自分の性質だと信じていた。

     三

 健三は実際その日その日の仕事に追われていた。家《うち》へ帰ってからも気楽に使える時間は少しもなかった。その上彼は自分の読みたいものを読んだり、書きたい事を書いたり、考えたい問題を考えたりしたかった。それで彼の心は殆《ほと》んど余裕というものを知らなかった。彼は始終机の前にこびり着いていた。
 娯楽の場所へも滅多に足を踏み込めない位忙がしがっている彼が、ある時友達から謡《うたい》の稽古《けいこ》を勧められて、体《てい》よくそれを断わったが、彼は心のうちで、他人《ひと》にはどうしてそんな暇があるのだろうと驚ろいた。そうして自分の時間に対する態度が、あたかも守銭奴のそれに似通っている事には、まるで気がつかなかった。
 自然の勢い彼は社交を避けなければならなかった。人間をも避けなければならなかった。彼の頭と活字との交渉が複雑になればなるほど、人としての彼は孤独に陥らなければならなかった。彼は朧気《おぼろげ》にその淋《さび》しさを感ずる場合さえあった。けれども一方ではまた心の底に異様の熱塊があるという自信を持っていた。だから索寞《さ
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