いきらい》だった。それは彼の不幸な過去を遠くから呼び起す媒介《なかだち》となるからであった。
 幸い彼の目下の状態はそんな事に屈托《くったく》している余裕を彼に与えなかった。彼は家《うち》へ帰って衣服を着換えると、すぐ自分の書斎へ這入《はい》った。彼は始終その六畳敷の狭い畳の上に自分のする事が山のように積んであるような気持でいるのである。けれども実際からいうと、仕事をするよりも、しなければならないという刺戟《しげき》の方が、遥かに強く彼を支配していた。自然彼はいらいらしなければならなかった。
 彼が遠い所から持って来た書物の箱をこの六畳の中で開けた時、彼は山のような洋書の裡《うち》に胡坐《あぐら》をかいて、一週間も二週間も暮らしていた。そうして何でも手に触れるものを片端《かたはし》から取り上げては二、三|頁《ページ》ずつ読んだ。それがため肝心の書斎の整理は何時まで経っても片付かなかった。しまいにこの体《てい》たらくを見るに見かねた或《ある》友人が来て、順序にも冊数にも頓着《とんじゃく》なく、あるだけの書物をさっさと書棚の上に並べてしまった。彼を知っている多数の人は彼を神経衰弱だと評した
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