れにしても健三にとって問題にはならなかった。
ただこの事件に関して今でも時々彼の胸に浮んでくる結婚後の事実が一つあった。五、六年前彼がまだ地方にいる頃、ある日女文字で書いた厚い封書が突然彼の勤め先の机の上へ置かれた。その時彼は変な顔をしてその手紙を読んだ。しかしいくら読んでも読んでも読み切れなかった。半紙廿枚ばかりへ隙間なく細字《さいじ》で書いたものの、五分の一ほど眼を通した後《あと》、彼はついにそれを細君の手に渡してしまった。
その時の彼には自分|宛《あて》でこんな長い手紙をかいた女の素性を細君に説明する必要があった。それからその女に関聯《かんれん》して、是非ともこの帽子を被らない男を引合に出す必要もあった。健三はそうした必要にせまられた過去の自分を記憶している。しかし機嫌買《きげんかい》な彼がどの位綿密な程度で細君に説明してやったか、その点になると彼はもう忘れていた。細君は女の事だからまだ判然《はっきり》覚えているだろうが、今の彼にはそんな事を改めて彼女に問い訊《ただ》して見る気も起らなかった。彼はこの長い手紙を書いた女と、この帽子を被らない男とを一所に並べて考えるのが大嫌《だ
前へ
次へ
全343ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング