津権現の坂の蔭から現われて健三を脅やかした。それがこの前とほぼ同じ場所で、時間も殆《ほとん》どこの前と違わなかった。
その時健三は相手の自分に近付くのを意識しつつ、何時もの通り器械のようにまた義務のように歩こうとした。けれども先方の態度は正反対であった。何人《なんびと》をも不安にしなければやまないほどな注意を双眼《そうがん》に集めて彼を凝視した。隙《すき》さえあれば彼に近付こうとするその人の心が曇《どん》よりした眸《ひとみ》のうちにありありと読まれた。出来るだけ容赦なくその傍《そば》を通り抜けた健三の胸には変な予覚が起った。
「とてもこれだけでは済むまい」
しかしその日|家《うち》へ帰った時も、彼はついに帽子を被らない男の事を細君に話さずにしまった。
彼と細君と結婚したのは今から七、八年前で、もうその時分にはこの男との関係がとくの昔に切れていたし、その上結婚地が故郷の東京でなかったので、細君の方ではじかにその人を知るはずがなかった。しかし噂《うわさ》としてだけならあるいは健三自身の口から既に話していたかも知れず、また彼の親類のものから聞いて知っていないとも限らなかった。それはいず
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