位この質問は突然であった。ちょっと驚ろいて健三の顔を見た彼女は、返事を待ち受けている夫の様子から始めてその意味を悟《さと》った。
「あの人ですか。――でも御留守でしたから」
細君は座敷へ島田を上げなかったのが、あたかも夫の気に障《さわ》る事でもしたような調子で、言訳がましい答をした。
「上げなかったのかい」
「ええ。ただ玄関でちょっと」
「何とかいっていたかい」
「とうに伺うはずだったけれども、少し旅行していたものだから御不沙汰《ごぶさた》をして済みませんって」
済みませんという言葉が一種の嘲弄《ちょうろう》のように健三の耳に響いた。
「旅行なんぞするのかな、田舎《いなか》に用のある身体《からだ》とも思えないが。御前にその行った先を話したかい」
「そりゃ何ともいいませんでした。ただ娘の所で来てくれって頼まれたから行って来たっていいました。大方あの御縫《おぬい》さんて人の宅《うち》なんでしょう」
御縫さんの嫁《かたづ》いた柴野《しばの》という男には健三もその昔会った覚《おぼえ》があった。柴野の今の任地先もこの間吉田から聞いて知っていた。それは師団か旅団のある中国辺の或《ある》都会で
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