た。
健三の新たに求めた余分の仕事は、彼の学問なり教育なりに取って、さして困難のものではなかった。ただ彼はそれに費やす時間と努力とを厭《いと》った。無意味に暇を潰《つぶ》すという事が目下の彼には何よりも恐ろしく見えた。彼は生きているうちに、何かし終《おお》せる、またし終《おお》せなければならないと考える男であった。
彼がその余分の仕事を片付けて家に帰るときは何時でも夕暮になった。
或日彼は疲れた足を急がせて、自分の家の玄関の格子を手荒く開けた。すると奥から出て来た細君が彼の顔を見るなり、「あなたあの人がまた来ましたよ」といった。細君は島田の事を始終あの人あの人と呼んでいたので、健三も彼女の様子と言葉から、留守のうちに誰が来たのかほぼ見当が付いた。彼は無言のまま茶の間へ上《あが》って、細君に扶《たす》けられながら洋服を和服に改めた。
二十二
彼が火鉢《ひばち》の傍《そば》に坐《すわ》って、烟草《タバコ》を一本吹かしていると、間もなく夕飯《ゆうめし》の膳《ぜん》が彼の前に運ばれた。彼はすぐ細君に質問を掛けた。
「上《あが》ったのかい」
細君には何が上ったのか解らない
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