全部を挙げて細君の手に委《ゆだ》ねるのを例にしていた健三には、それが意外であった。彼はいまだかつて月末《げつまつ》に細君の手から支出の明細書《めいさいがき》を突き付けられた例《ためし》がなかった。
「まあどうにかしているんだろう」
 彼は常にこう考えた。それで自分に金の要《い》る時は遠慮なく細君に請求した。月々買う書物の代価だけでも随分の多額に上《のぼ》る事があった。それでも細君は澄ましていた。経済に暗い彼は時として細君の放漫をさえ疑《うたぐ》った。
「月々の勘定はちゃんとして己《おれ》に見せなければいけないぜ」
 細君は厭《いや》な顔をした。彼女自身からいえば自分ほど忠実な経済家はどこにもいない気なのである。
「ええ」
 彼女の返事はこれぎりであった。そうして月末《つきずえ》が来ても会計簿はついに健三の手に渡らなかった。健三も機嫌の好《い》い時はそれを黙認した。けれども悪い時は意地になってわざと見せろと逼《せま》る事があった。そのくせ見せられるとごちゃごちゃしてなかなか解らなかった。たとい帳面づらは細君の説明を聴いて解るにしても、実際月に肴《さかな》をどれだけ食《くっ》たものか、また
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