いじゃありませんか」
 手切の金は昔し養育料の名前の下《もと》に、健三の父の手から島田に渡されたのである。それはたしか健三が廿二の春であった。
「その上その御金をやる十四、五年も前から貴夫は、もう貴夫の宅《うち》へ引き取られていらしったんでしょう」
 いくつの年からいくつの年まで、彼が全然島田の手で養育されたのか、健三にも判然《はっきり》分らなかった。
「三つから七つまでですって。御兄《おあにい》さんがそう御仰《おっしゃ》いましたよ」
「そうかしら」
 健三は夢のように消えた自分の昔を回顧した。彼の頭の中には眼鏡《めがね》で見るような細かい絵が沢山出た。けれどもその絵にはどれを見ても日付がついていなかった。
「証文にちゃんとそう書いてあるそうですから大丈夫間違はないでしょう」
 彼は自分の離籍に関した書類というものを見た事がなかった。
「見ない訳はないわ。きっと忘れていらっしゃるんですよ」
「しかし八《やつ》ッで宅へ帰ったにしたところで復籍するまでは多少往来もしていたんだから仕方がないさ。全く縁が切れたという訳でもないんだからね」
 細君は口を噤《つぐ》んだ。それが何故《なぜ》だか健三
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