ん》だの烟草盆を片付け始めた細君は、しまいに黙って坐っている彼の前に立った。
「あなたまだ其処《そこ》に坐っていらっしゃるんですか」
「いやもう立っても好い」
 健三はすぐ立上《たちあが》ろうとした。
「あの人たちはまた来るんでしょうか」
「来るかも知れない」
 彼はこう言い放ったまま、また書斎へ入った。一しきり箒で座敷を掃く音が聞えた。それが済むと、菓子折を奪《と》り合う子供の声がした。凡《すべ》てがやがて静《しずか》になったと思う頃、黄昏《たそがれ》の空からまた雨が落ちて来た。健三は買おう買おうと思いながら、ついまだ買わずにいるオヴァーシューの事を思い出した。

     十八

 雨の降る日が幾日《いくか》も続いた。それがからりと晴れた時、染付けられたような空から深い輝きが大地の上に落ちた。毎日|欝陶《うっとう》しい思いをして、縫針《ぬいはり》にばかり気をとられていた細君は、縁鼻《えんばな》へ出てこの蒼《あお》い空を見上げた。それから急に箪笥《たんす》の抽斗《ひきだし》を開けた。
 彼女が服装を改ためて夫の顔を覗《のぞ》きに来た時、健三は頬杖《ほおづえ》を突いたまま盆槍《ぼんやり
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