《わず》か五厘の釣銭《つり》を取るべく店先へ腰を卸して頑として動かなかった。董其昌《とうきしょう》の折手本《おりでほん》を抱えて傍《そば》に佇立《たたず》んでいる彼に取ってはその態度が如何《いか》にも見苦しくまた不愉快であった。
「こんな人に監督される大工や左官はさぞ腹の立つ事だろう」
健三はこう考えながら、島田の顔を見て苦笑を洩《も》らした。しかし島田は一向それに気が付かないらしかった。
十七
「でも御蔭さまで、本を遺《のこ》して行ってくれたもんですから、あの男が亡くなっても、あとはまあ困らないで、どうにかこうにか遣《や》って行けるんです」
島田は――の作った書物を世の中の誰でもが知っていなければならないはずだといった風の口調でこういった。しかし健三は不幸にしてその著書の名前を知らなかった。字引《じびき》か教科書だろうとは推察したが、別に訊《き》いて見る気にもならなかった。
「本というものは実に有難いもので、一つ作って置くとそれが何時までも売れるんですからね」
健三は黙っていた。仕方なしに吉田が相手になって、何でも儲《もう》けるには本に限るような事をいった。
「御
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