の時の記憶を細君に話さなかった。感情に脆《もろ》い女の事だから、もしそうでもしたら、あるいは彼女の反感を和らげるに都合が好かろうとさえ思わなかった。

     十六

 待ち設けた日がやがて来た。吉田と島田とはある日の午後連れ立って健三の玄関に現れた。
 健三はこの昔の人に対してどんな言葉を使って、どんな応対をして好《い》いか解らなかった。思慮なしにそれらを極《き》めてくれる自然の衝動が今の彼にはまるで欠けていた。彼は二十年余も会わない人と膝《ひざ》を突き合せながら、大した懐かしみも感じ得ずに、むしろ冷淡に近い受答えばかりしていた。
 島田はかねて横風《おうふう》だという評判のある男であった。健三の兄や姉は単にそれだけでも彼を忌み嫌っている位であった。実は健三自身も心のうちでそれを恐れていた。今の健三は、単に言葉遣いの末でさえ、こんな男から自尊心を傷《きずつ》けられるには、あまりに高過ぎると、自分を評価していた。
 しかし島田は思ったよりも鄭寧《ていねい》であった。普通|初見《しょけん》の人が挨拶《あいさつ》に用いる「ですか」とか、「ません」とかいうてには[#「てには」に傍点]で、言
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