さな声で「御会いになりますか」と訊《たず》ねた。
「会うから座敷へ通してくれ」
 細君は断りたさそうな顔をして少し躊躇《ちゅうちょ》していた。しかし夫の様子を見てとった彼女は、何もいわずにまた書斎を出て行った。
 吉田というのは、でっぷり肥《ふと》った、かっぷくの好《よ》い、四十|恰好《がっこう》の男であった。縞《しま》の羽織《はおり》を着て、その頃まで流行《はや》った白縮緬《しろちりめん》の兵児帯《へこおび》にぴかぴかする時計の鎖を巻き付けていた。言葉使いから見ても、彼は全くの町人であった。そうかといって、決して堅気《かたぎ》の商人《あきんど》とは受取れなかった。「なるほど」というべきところを、わざと「なある」と引張ったり、「御尤《ごもっと》も」の代りに、さも感服したらしい調子で、「いかさま」と答えたりした。
 健三には会見の順序として、まず吉田の身元から訊《き》いてかかる必要があった。しかし彼よりは能弁な吉田は、自分の方で聞かれない先に、素性の概略を説明した。
 彼はもと高崎《たかさき》にいた。そうして其所《そこ》にある兵営に出入《しゅつにゅう》して、糧秣《かいば》を納めるのが彼の
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