鍋と茶碗を持って席を立つ前、細君はもう一度こういった。
「その名刺の名前の人はまた来るそうですよ。いずれ御病気が御癒《おなお》りになったらまた伺いますからって、帰って行ったそうですから」
 健三は仕方なしにまた眼を開《あ》いた。
「来るだろう。どうせ島田の代理だと名乗る以上はまた来るに極《きま》ってるさ」
「しかしあなた御会いになって? もし来たら」
 実をいうと彼は会いたくなかった。細君はなおの事夫をこの変な男に会わせたくなかった。
「御会いにならない方が好《い》いでしょう」
「会っても好い。何も怖い事はないんだから」
 細君には夫の言葉が、また例の我《が》だと取れた。健三はそれを厭《いや》だけれども正しい方法だから仕方がないのだと考えた。

     十二

 健三の病気は日ならず全快した。活字に眼を曝《さら》したり、万年筆を走らせたり、または腕組をしてただ考えたりする時が再び続くようになった頃、一度無駄足を踏ませられた男が突然また彼の玄関先に現われた。
 健三は鳥の子紙に刷った吉田虎吉《よしだとらきち》という見覚《みおぼえ》のある名刺を受取って、しばらくそれを眺めていた。細君は小
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