機会がまるでなかったのである。
「御前島田の事を知ってるのかい」
「あの長い手紙が御常《おつね》さんって女から届いた時、貴方が御話しなすったじゃありませんか」
 健三は何とも答えずに一旦下へ置いた名刺をまた取り上げて眺めた。島田の事をその時どれほど詳しく彼女に話したか、それが彼には不確《ふたしか》であった。
「ありゃ何時だったかね。よッぽど古い事だろう」
 健三はその長々しい手紙を細君に見せた時の心持を思い出して苦笑した。
「そうね。もう七年位になるでしょう。私《あたし》たちがまだ千本通《せんぼんどお》りにいた時分ですから」
 千本通りというのは、彼らがその頃住んでいた或《ある》都会の外れにある町の名であった。
 細君はしばらくして、「島田の事なら、あなたに伺わないでも、御兄《おあにい》さんからも聞いて知ってますわ」といった。
「兄がどんな事をいったかい」
「どんな事って、――なんでも余《あんま》り善くない人だっていう話じゃありませんか」
 細君はまだその男の事について、健三の心を知りたい様子であった。しかし彼にはまた反対にそれを避けたい意向があった。彼は黙って眼を閉じた。盆に載せた土
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