細君の手から茶碗を受取ろうとした。しかし舌障《したざわ》りの悪い飯粒が、ざらざらと咽喉《のど》の方へ滑り込んで行くだけなので、彼はたった一|膳《ぜん》で口を拭《ぬぐ》ったなり、すぐ故《もと》の通り横になった。
「まだ食気《しょっき》が出ませんね」
「少しも旨《うま》くない」
 細君は帯の間から一枚の名刺を出した。
「こういう人が貴方《あなた》の寐《ね》ていらしゃるうちに来たんですが、御病気だから断って帰しました」
 健三は寐ながら手を出して、鳥の子紙に刷ったその名刺を受取って、姓名を読んで見たが、まだ会った事も聞いた事もない人であった。
「何時《いつ》来たのかい」
「たしか一昨日《おととい》でしたろう。ちょっと御話ししようと思ったんですが、まだ熱が下《さが》らないから、わざと黙っていました」
「まるで知らない人だがな」
「でも島田の事でちょっと御主人に御目にかかりたいって来たんだそうですよ」
 細君はとくに島田という二字に力を入れてこういいながら健三の顔を見た。すると彼の頭にこの間途中で会った帽子を被《かぶ》らない男の影がすぐひらめいた。熱から覚めた彼には、それまでこの男の事を思い出す
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