く汚さなければならなかった。
 客に会う前と会った後との気分の相違が、彼を不公平にしはしまいかとの恐れが彼の心に起った時、彼は一旦読みおわったものを念のためまた読んだ。それですら三時間前の彼の標準が今の標準であるかどうか、彼には全く分らなかった。
「神でない以上公平は保てない」
 彼はあやふや[#「あやふや」に傍点]な自分を弁護しながら、ずんずん眼を通し始めた。しかし積重ねた半紙の束は、いくら速力を増しても尽きる期がなかった。漸く一組を元のように折るとまた新らしく一組を開かなければならなかった。
「神でない以上辛抱だってし切れない」
 彼はまた洋筆《ペン》を放り出した。赤い印気《インキ》が血のように半紙の上に滲《にじ》んだ。彼は帽子を被《かぶ》って寒い往来へ飛び出した。

     九十七

 人通りの少ない町を歩いている間、彼は自分の事ばかり考えた。
「御前は必竟《ひっきょう》何をしに世の中に生れて来たのだ」
 彼の頭のどこかでこういう質問を彼に掛けるものがあった。彼はそれに答えたくなかった。なるべく返事を避けようとした。するとその声がなお彼を追窮し始めた。何遍でも同じ事を繰り返して
前へ 次へ
全343ページ中322ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング