」
「とても」
「困るだろうね」
「困っても仕方がありませんわ。何もかもみんな運命なんだから」
細君は割合に落付《おちつ》いていた。何事も諦《あき》らめているらしく見えた。
九十五
見知らない名刺の持参者が、健三の指定した通り、中一日《なかいちにち》置いて再び彼の玄関に現れた時、彼はまだささくれた洋筆先《ペンさき》で、粗末な半紙の上に、丸だの三角だのと色々な符徴を附けるのに忙がしかった。彼の指頭《ゆびさき》は赤い印気《インキ》で所々汚《よご》れていた。彼は手も洗わずにそのまま座敷へ出た。
島田のために来たその男は、前の吉田に比べると少し型を異《こと》にしていたが、健三からいえば、双方とも殆《ほと》んど差別のない位懸け離れた人間であった。
彼は縞《しま》の羽織《はおり》に角帯《かくおび》を締めて白足袋《しろたび》を穿《は》いていた。商人とも紳土とも片の付かない彼の様子なり言葉遣なりは、健三に差配という一種の人柄を思い起させた。彼は自分の身分や職業を打ら明ける前に、卒然として健三に訊《き》いた。――
「貴方《あなた》は私《わたくし》の顔を覚えて御出《おいで》ですか」
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