健三は驚ろいてその人を見た。彼の顔には何らの特徴もなかった。強《し》いていえば、今日《こんにち》までただ世帯染《しょたいじ》みて生きて来たという位のものであった。
「どうも分りませんね」
彼は勝ち誇った人のように笑った。
「そうでしょう。もう忘れても好《い》い時分ですから」
彼は区切を置いてまた附け加えた。
「しかし私ゃこれでも貴方の坊《ぼっ》ちゃん坊ちゃんていわれた昔をまだ覚えていますよ」
「そうですか」
健三は素《そ》ッ気《け》ない挨拶《あいさつ》をしたなり、その人の顔を凝《じっ》と見守った。
「どうしても思い出せませんかね。じゃ御話ししましょう。私ゃ昔し島田さんが扱所《あつかいじょ》を遣《や》っていなすった頃、あすこに勤めていたものです。ほら貴方が悪戯《いたずら》をして、小刀で指を切って、大騒ぎをした事があるでしょう。あの小刀は私の硯箱《すずりばこ》の中にあったんでさあ。あの時|金盥《かなだらい》に水を取って、貴方の指を冷したのも私ですぜ」
健三の頭にはそうした事実が明らかにまだ保存されていた。しかし今自分の前に坐《すわ》っている人のその時の姿などは夢にも憶《おも》い出
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