は仕合せである。しかしその仕合を享《う》ける前に御前は既に多大な犠牲を払っている。これから先も御前の気の付かない犠牲をどの位払うか分らない。御前は仕合せかも知れないが、実は気の毒なものだ」
九十四
年は段々暮れて行った。寒い風の吹く中に細かい雪片がちらちらと見え出した。子供は日に何度となく「もういくつ寐《ね》ると御正月」という唄《うた》をうたった。彼らの心は彼らの口にする唱歌の通りであった。来《きた》るべき新年の希望に充《み》ちていた。
書斎にいる健三は時々手に洋筆《ペン》を持ったまま、彼らの声に耳を傾けた。自分にもああいう時代があったのかしらなどと考えた。
子供はまた「旦那の嫌《きらい》な大晦日《おおみそか》」という毬歌《まりうた》をうたった。健三は苦笑した。しかしそれも今の自分の身の上には痛切に的中《あてはま》らなかった。彼はただ厚い四《よ》つ折の半紙の束を、十《とお》も二十も机の上に重ねて、それを一枚ごとに読んで行く努力に悩まされていた。彼は読みながらその紙へ赤い印気《インキ》で棒を引いたり丸を書いたり三角を附けたりした。それから細かい数字を並べて面倒な勘定も
前へ
次へ
全343ページ中313ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング