に宅《うち》を出た。細君は何時もの通り帽子を持って夫を玄関まで送って来たが、この時の彼には、それがただ形式だけを重んずる女としか受取れなかったので、彼はなお厭な心持がした。
外ではしきりに悪感《おかん》がした。舌が重々しくぱさついて、熱のある人のように身体全体が倦怠《けたる》かった。彼は自分の脈を取って見て、その早いのに驚ろいた。指頭《しとう》に触れるピンピンいう音が、秒を刻む袂時計《たもとどけい》の音と錯綜《さくそう》して、彼の耳に異様な節奏を伝えた。それでも彼は我慢して、するだけの仕事を外でした。
十
彼は例刻に宅《うち》へ帰った。洋服を着換える時、細君は何時もの通り、彼の不断着《ふだんぎ》を持ったまま、彼の傍《そば》に立っていた。彼は不快な顔をしてそちらを向いた。
「床を取ってくれ。寐《ね》るんだ」
「はい」
細君は彼のいうがままに床を延べた。彼はすぐその中に入って寐た。彼は自分の風邪気《かぜけ》の事を一口も細君にいわなかった。細君の方でも一向|其所《そこ》に注意していない様子を見せた。それで双方とも腹の中には不平があった。
健三が眼を塞《ふさ》いでうつらう
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