い」
 彼は深くこう信じていた。あたかも自分自身は凡《すべ》ての技巧から解放された自由の人であるかのように。

     八十四

 退屈な細君は貸本屋から借りた小説を能《よ》く床の上で読んだ。時々枕元に置いてある厚紙の汚ならしいその表紙が健三の注意を惹《ひ》く時、彼は細君に向って訊《き》いた。
「こんなものが面白いのかい」
 細君は自分の文学趣味の低い事を嘲《あざ》けられるような気がした。
「いいじゃありませんか、貴夫《あなた》に面白くなくったって、私《わたくし》にさえ面白けりゃ」
 色々な方面において自分と夫の隔離を意識していた彼女は、すぐこんな口が利きたくなった。
 健三の所へ嫁《とつ》ぐ前の彼女は、自分の父と自分の弟と、それから官邸に出入《でいり》する二、三の男を知っているぎりであった。そうしてその人々はみんな健三とは異《ちが》った意味で生きて行くものばかりであった。男性に対する観念をその数人から抽象して健三の所へ持って来た彼女は、全く予期と反対した一個の男を、彼女の夫において見出した。彼女はそのどっちかが正しくなければならないと思った。無論彼女の眼には自分の父の方が正しい男の
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