いもんだな」
 細君には夫の言葉があまりに突然過ぎた。そうしてその意味が解らなかった。
「何ですって」
 健三は彼女の前に同じ文句を繰り返すべく余儀なくされた。
「それがどうしたの」
「どうしもしないけれども、そうだからそうだというのさ」
「詰らないわ。他《ひと》に解らない事さえいいや、好《い》いかと思って」
 細君は夫を捨ててまた自分の傍に赤ん坊を引き寄せた。健三は厭《いや》な顔もせずに書斎へ入った。
 彼の心のうちには死なない細君と、丈夫な赤ん坊の外に、免職になろうとしてならずにいる兄の事があった。喘息《ぜんそく》で斃《たお》れようとしてまだ斃れずにいる姉の事があった。新らしい位地が手に入《い》るようでまだ手に入らない細君の父の事があった。その他《た》島田の事も御常《おつね》の事もあった。そうして自分とこれらの人々との関係が皆なまだ片付かずにいるという事もあった。

     八十三

 子供は一番気楽であった。生きた人形でも買ってもらったように喜んで、閑《ひま》さえあると、新らしい妹《いもと》の傍《そば》に寄りたがった。その妹の瞬《またた》き一つさえ驚嘆の種になる彼らには、嚏《く
前へ 次へ
全343ページ中276ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング