言葉を繰り返す事は忘れなかった。
 しかし細君の父と彼との交情に、自然の溝渠《みぞ》が出来たのは、やはり父の重きを置き過ぎている手腕の結果としか彼には思えなかった。
 健三は正月に父の所へ礼に行かなかった。恭賀新年という端書だけを出した。父はそれを寛仮《ゆる》さなかった。表向それを咎《とが》める事もしなかった。彼は十二、三になる末の子に、同じく恭賀新年という曲りくねった字を書かして、その子の名前で健三に賀状の返しをした。こういう手腕で彼に返報する事を巨細《こさい》に心得ていた彼は、何故《なぜ》健三が細君の父たる彼に、賀正《がせい》を口ずから述べなかったかの源因については全く無反省であった。
 一事は万事に通じた。利が利を生み、子に子が出来た。二人は次第に遠ざかった。やむをえないで犯す罪と、遣《や》らんでも済むのにわざと遂行する過失との間に、大変な区別を立てている健三は、性質《たち》の宜《よろ》しくないこの余裕を非常に悪《にく》み出した。

     七十八

「与《くみ》しやすい男だ」
 実際において与しやすい或物を多量に有《も》っていると自覚しながらも、健三は他《ひと》からこう思われ
前へ 次へ
全343ページ中259ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング