一
筋道の通った頭を有《も》っていない彼女には存外新らしい点があった。彼女は形式的な昔風の倫理観に囚《とら》われるほど厳重な家庭に人とならなかった。政治家を以て任じていた彼女の父は、教育に関して殆《ほと》んど無定見であった。母はまた普通の女のように八釜《やかま》しく子供を育て上る性質《たち》でなかった。彼女は宅《うち》にいて比較的自由な空気を呼吸した。そうして学校は小学校を卒業しただけであった。彼女は考えなかった。けれども考えた結果を野性的に能《よ》く感じていた。
「単に夫という名前が付いているからというだけの意味で、その人を尊敬しなくてはならないと強《し》いられても自分には出来ない。もし尊敬を受けたければ、受けられるだけの実質を有った人間になって自分の前に出て来るが好《い》い。夫という肩書などはなくっても構わないから」
不思議にも学問をした健三の方はこの点においてかえって旧式であった。自分は自分のために生きて行かなければならないという主義を実現したがりながら、夫のためにのみ存在する妻を最初から仮定して憚《はば》からなかった。
「あらゆる意味から見て、妻は夫に従属すべきものだ」
前へ
次へ
全343ページ中236ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング