なかった。彼はたった一人で、日中の勉強につづく涼しい夜を散歩に費やした。そうして継布《つぎ》のあたった青い蚊帳《かや》の中に入って寐《ね》た。
 一カ月あまりすると細君が突然遣って来た。その時健三は日のかぎった夕暮の空の下に、広くもない庭先を逍遥《あちこち》していた。彼の歩みが書斎の縁側の前へ来た時、細君は半分朽ち懸けた枝折戸《しおりど》の影から急に姿を現わした。
「貴夫《あなた》故《もと》のようになって下さらなくって」
 健三は細君の穿《は》いている下駄《げた》の表が変にささくれて、その後《うしろ》の方が如何《いか》にも見苦しく擦《す》り減らされているのに気が付いた。彼は憐《あわ》れになった。紙入の中から三枚の一円紙幣を出して細君の手に握らせた。
「見っともないからこれで下駄でも買ったら好いだろう」
 細君が帰ってから幾日《いくか》目か経った後《のち》、彼女の母は始めて健三を訪ずれた。用事は細君が健三に頼んだのと大同小異で、もう一遍彼らを引取ってくれという主意を畳の上で布衍《ふえん》したに過ぎなかった。既に本人に帰りたい意志があるのを拒絶するのは、健三から見ると無情な挙動《ふるまい》
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