き上がった。細君も同時に立った。
 昨夜《ゆうべ》の事は二人ともまるで忘れたように何にもいわなかった。

     五十二

 二人は自分たちのこの態度に対して何の注意も省察《せいさつ》も払わなかった。二人は二人に特有な因果関係を有《も》っている事を冥々《めいめい》の裡《うち》に自覚していた。そうしてその因果関係が一切の他人には全く通じないのだという事も能《よ》く呑《の》み込んでいた。だから事状を知らない第三者の眼に、自分たちがあるいは変に映りはしまいかという疑念さえ起さなかった。
 健三は黙って外へ出て、例の通り仕事をした。しかしその仕事の真際中に彼は突然細君の病気を想像する事があった。彼の眼の前に夢を見ているような細君の黒い眼が不意に浮んだ。すると彼はすぐ自分の立っている高い壇から降りて宅《うち》へ帰らなければならないような気がした。あるいは今にも宅から迎《むかい》が来るような心持になった。彼は広い室《へや》の片隅にいて真ん向うの突当《つきあた》りにある遠い戸口を眺めた。彼は仰向いて兜《かぶと》の鉢金《はちがね》を伏せたような高い丸天井を眺めた。仮漆《ヴァーニッシ》で塗り上げた角材
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