て来た。健三に対して過去の己《おの》れに返ろう返ろうとする試みを遂に断念してしまった。
 彼は室《へや》の内をきょろきょろ見廻し始めた。殺風景を極めたその室の中には生憎《あいにく》額も掛物も掛っていなかった。
「李鴻章《りこうしょう》の書は好きですか」
 彼は突然こんな問を発した。健三は好きとも嫌《きらい》ともいい兼《かね》た。
「好きなら上げても好《よ》ござんす。あれでも価値《ねうち》にしたら今じゃよっぽどするでしょう」
 昔し島田は藤田東湖《ふじたとうこ》の偽筆に時代を着けるのだといって、白髪蒼顔万死余云々《はくはつそうがんばんしのようんぬん》と書いた半切《はんせつ》の唐紙《とうし》を、台所の竈《へっつい》の上に釣るしていた事があった。彼の健三にくれるという李鴻章も、どこの誰が書いたものか頗《すこぶ》る怪しかった。島田から物を貰う気の絶対になかった健三は取り合わずにいた。島田は漸《ようや》く帰った。

     四十七

「何しに来たんでしょう、あの人は」
 目的《あて》なしにただ来るはずがないという感じが細君には強くあった。健三も丁度同じ感じに多少支配されていた。
「解らないね、
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