た昔に比べると、今の兄は全く色気が抜けていた。その代り膏気《あぶらっけ》もなかった。彼はぱさぱさした手で、汚れた風呂敷の隅を抓《つま》んで、それを鄭寧《ていねい》に折った。
「こりゃ好い袴だね。近頃|拵《こしら》えたの」
「いいえ。なかなかそんな勇気はありません。昔からあるんです」
 細君は結婚のときこの袴を着けて勿体《もったい》らしく坐《すわ》った夫の姿を思いだした。遠い所で極《ごく》簡略に行われたその結婚の式に兄は列席していなかった。
「へええ。そうかね。なるほどそういわれるとどこかで見たような気もするが、しかし昔のものはやっぱり丈夫なんだね。ちっとも敗《いた》んでいないじゃないか」
「滅多に穿《は》かないんですもの。それでも一人でいるうちに能《よ》くそんな物を買う気になれたのね、あの人が。私《わたくし》今でも不思議だと思いますわ」
「あるいは婚礼の時に穿くつもりでわざわざ拵えたのかも知れないね」
 二人はその時の異様な結婚式について笑いながら話し合った。
 東京からわざわざ彼女を伴《つ》れて来た細君の父は、娘に振袖《ふりそで》を着せながら、自分は一通りの礼装さえ調《ととの》えてい
前へ 次へ
全343ページ中113ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング