まわなかったという事さ」
細君は赤と白で撚った細い糸を火鉢《ひばち》の抽斗から出して来て、其所《そこ》に置かれた書類を新らしく絡《から》げた上、それを夫に渡した。
「己《おれ》の方にゃしまって置く所がないよ」
彼の周囲は書物で一杯になっていた。手文庫には文殻《ふみがら》とノートがぎっしり詰っていた。空地《くうち》のあるのは夜具《やぐ》蒲団《ふとん》のしまってある一|間《けん》の戸棚だけであった。細君は苦笑して立ち上った。
「御兄《おあにい》さんは二、三日うちきっとまたいらっしゃいますよ」
「あの事でかい」
「それもそうですけれども、今日《きょう》御葬式にいらっしゃる時に、袴《はかま》が要《い》るから借してくれって、此所《ここ》で穿《は》いていらしったんですもの。きっとまた返しにいらっしゃるに極《きま》っていますわ」
健三は自分の袴を借りなければ葬式の供に立てない兄の境遇を、ちょっと考えさせられた。始めて学校を卒業した時彼はその兄から貰《もら》ったべろべろの薄羽織《うすばおり》を着て友達と一所に池《いけ》の端《はた》で写真を撮った事をまだ覚えていた。その友達の一人《いちにん》が健三
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