に向って、この中で一番先に馬車へ乗るものは誰《たれ》だろうといった時に、彼は返事をしないで、ただ自分の着ている羽織を淋《さび》しそうに眺めた。その羽織は古い絽《ろ》の紋付に違なかったが、悪くいえば申し訳のために破けずにいる位な見すぼらしい程度のものであった。懇意な友人の新婚|披露《ひろう》に招かれて星《ほし》が岡《おか》の茶寮《さりょう》に行った時も、着るものがないので、袴羽織とも凡《すべ》て兄のを借りて間に合せた事もあった。
彼は細君の知らないこんな記憶を頭の中に呼び起した。しかしそれは今の彼を得意にするよりもかえって悲しくした。今昔《こんじゃく》の感――そういう在来《ありきたり》の言葉で一番よく現せる情緒が自然と彼の胸に湧《わ》いた。
「袴位ありそうなものだがね」
「みんな長い間に失くして御しまいなすったんでしょう」
「困るなあ」
「どうせ宅《うち》にあるんだから、要る時に貸して上げさいすりゃそれで好《い》いでしょう。毎日使うものじゃなし」
「宅にある間はそれで好いがね」
細君は夫に内所《ないしょ》で自分の着物を質に入れたついこの間の事件を思い出した。夫には何時自分が兄と同じ境
前へ
次へ
全343ページ中108ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング