それが貴夫の八ツの時なのね。それから貴夫は御自分の宅《うち》へ御帰りになった訳ね」
「しかし籍を返さないんだ」
「あの人が?」
 細君はまたその書付を取り上げた。読めない所はそのままにして置いて、読める所だけ眼を通しても、自分のまだ知らない事実が出て来るだろうという興味が、少なからず彼女の好奇心を唆《そそ》った。
 書付のしまいの方には、島田が健三の戸籍を元通りにして置いて実家へ返さないのみならず、いつの間にか戸主に改めた彼の印形《いんぎょう》を濫用《らんよう》して金を借り散らした例などが挙げてあった。
 いよいよ手を切る時に養育料として島田に渡した金の証文も出て来た。それには、しかる上は健三離縁本籍と引替に当金――円御渡し被下《くだされ》、残金――円は毎月《まいげつ》三十日限り月賦にて御差入《おさしいれ》のつもり御対談|云々《うんぬん》と長たらしく書いてあった。
「凡《すべ》て変梃《へんてこ》な文句ばかりだね」
「親類取扱人|比田寅八《ひだとらはち》って下に印が押してあるから、大方比田さんでも書いたんでしょう」
 健三はついこの間会った比田の万事に心得顔な様子と、この証文の文句とを引
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