手蹟が大いに彼を苦しめた。
「これを御覧、とても読む勇気がないね。ただでさえ判明《わか》らないところへ持って来て、むやみに朱を入れたり棒を引いたりしてあるんだから」
健三の父と島田との懸合《かけあい》について必要な下書《したがき》らしいものが細君の手に渡された。細君は女だけあって、綿密にそれを読み下《くだ》した。
「貴夫《あなた》の御父さまはあの島田って人の世話をなすった事があるのね」
「そんな話は己《おれ》も聞いてはいるが」
「此所《ここ》に書いてありますよ。――同人幼少にて勤向《つとめむき》相成りがたく当方《とうかた》へ引き取り五カ年間養育致|候縁合《そろえんあい》を以てと」
細君の読み上げる文章は、まるで旧幕時代の町人が町奉行《まちぶぎょう》か何かへ出す訴状のように聞こえた。その口調に動かされた健三は、自然古風な自分の父を眼の前に髣髴《ほうふつ》した。その父から、将軍の鷹狩《たかがり》に行く時の模様などを、それ相当の敬語で聞かされた昔も思い合された。しかし事実の興味が主として働らきかけている細君の方ではまるで文体などに頓着《とんじゃく》しなかった。
「その縁故で貴夫はあの人の
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