どり」に傍点]とかいう三味線《しゃみせん》の手を教えたり、またはさば[#「さば」に傍点]を読むという隠語などを習い覚えさせたりした。
「どうもやっぱり立食に限るようですね。私もこの年になるまで、段々方々食って歩いて見たが。健ちゃん、一遍|軽井沢《かるいざわ》で蕎麦を食って御覧なさい、騙《だま》されたと思って。汽車の停《とま》ってるうちに、降りて食うんです、プラットフォームの上へ立ってね。さすが本場だけあって旨《うも》うがすぜ」
彼は信心を名として能く方々遊び廻る男であった。
「それよか、善光寺《ぜんこうじ》の境内《けいだい》に元祖|藤八拳《とうはちけん》指南所という看板が懸っていたには驚ろいたね、長さん」
「這入《はい》って一つ遣って来やしないか」
「だって束修《そくしゅう》が要《い》るんだからね、君」
こんな談話を聞いていると、健三も何時か昔の我に帰ったような心持になった。同時に今の自分が、どんな意味で彼らから離れてどこに立っているかも明らかに意識しなければならなくなった。しかし比田は一向そこに気が付かなかった。
「健ちゃんはたしか京都へ行った事がありますね。彼所《あすこ》に、ちんちらでんき[#「ちんちらでんき」に傍点]皿|持《も》てこ汁飲ましょって鳴く鳥がいるのを御存じですか」などと訊《き》いた。
先刻《さっき》から落付《おちつ》いていた姉が、また劇《はげ》しく咳《せ》き出した時、彼は漸《ようや》く口を閉じた。そうしてさもくさくさしたといわぬばかりに、左右の手の平を揃《そろ》えて、黒い顔をごしごし擦《こす》った。
兄と健三はちょっと茶の間の様子を覗《のぞ》きに立った。二人とも発作の静まるまで姉の枕元に坐《すわ》っていた後で、別々に比田の家を出た。
二十九
健三は自分の背後にこんな世界の控えている事を遂に忘れることが出来なくなった。この世界は平生《へいぜい》の彼にとって遠い過去のものであった。しかしいざという場合には、突然現在に変化しなければならない性質を帯びていた。
彼の頭には願仁坊主《がんにんぼうず》に似た比田の毬栗頭《いがぐりあたま》が浮いたり沈んだりした。猫のように顋《あご》の詰った姉の息苦しく喘《あえ》いでいる姿が薄暗く見えた。血の気の竭《つ》きかけた兄に特有なひすばった長い顔も出たり引込《ひっこ》んだりした。
昔しこの世界に
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