道草
夏目漱石

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)健三《けんぞう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)ある日|小雨《こさめ》が降った

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]
−−

     一

 健三《けんぞう》が遠い所から帰って来て駒込《こまごめ》の奥に世帯《しょたい》を持ったのは東京を出てから何年目になるだろう。彼は故郷の土を踏む珍らしさのうちに一種の淋《さび》し味《み》さえ感じた。
 彼の身体《からだ》には新らしく後《あと》に見捨てた遠い国の臭《におい》がまだ付着していた。彼はそれを忌《い》んだ。一日も早くその臭を振《ふる》い落さなければならないと思った。そうしてその臭のうちに潜んでいる彼の誇りと満足にはかえって気が付かなかった。
 彼はこうした気分を有《も》った人にありがちな落付《おちつき》のない態度で、千駄木《せんだぎ》から追分《おいわけ》へ出る通りを日に二返ずつ規則のように往来した。
 ある日|小雨《こさめ》が降った。その時彼は外套《がいとう》も雨具も着けずに、ただ傘を差しただけで、何時もの通りを本郷《ほんごう》の方へ例刻に歩いて行った。すると車屋の少しさきで思い懸けない人にはたりと出会った。その人は根津権現《ねづごんげん》の裏門の坂を上《あが》って、彼と反対に北へ向いて歩いて来たものと見えて、健三が行手を何気なく眺めた時、十|間《けん》位先から既に彼の視線に入ったのである。そうして思わず彼の眼《め》をわきへ外《そら》させたのである。
 彼は知らん顔をしてその人の傍《そば》を通り抜けようとした。けれども彼にはもう一遍この男の眼鼻立を確かめる必要があった。それで御互が二、三間の距離に近づいた頃また眸《ひとみ》をその人の方角に向けた。すると先方ではもう疾《と》くに彼の姿を凝《じっ》と見詰めていた。
 往来は静《しずか》であった。二人の間にはただ細い雨の糸が絶間なく落ちているだけなので、御互が御互の顔を認めるには何の困難もなかった。健三はすぐ眼をそらしてまた真正面を向いたまま歩き出した。けれども相手は道端に立ち留まったなり、少しも足を運ぶ気色《けしき》なく、じっと
次へ
全172ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング