から見ると、島田の要求は不思議な位理に合わなかった。従ってそれを片付けるのも容易であった。ただ簡単に断りさえすれば済んだ。
「しかし一旦は貴方《あなた》の御耳まで入れて置かないと、私《わたくし》の落度になりますからね」と比田は自分を弁護するようにいった。彼はどこまでもこの会合を真面目《まじめ》なものにしなければ気が済まないらしかった。それで言う事も時によって変化した。
「それに相手が相手ですからね。まかり間違えば何をするか分らないんだから、用心しなくっちゃいけませんよ」
「焼が廻ってるなら構わないじゃないか」と兄が冗談半分に彼の矛盾を指摘すると、比田はなお真面目になった。
「焼が廻ってるから怖いんです。なに先が当り前の人間なら、私《わたし》だってその場ですぐ断っちまいまさあ」
 こんな曲折は会談中に時々起ったが、要するに話は最初に戻って、つまり比田が代表者として島田の要求を断るという事になった。それは三人が三人ながら始めから予期していた結局なので、其所《そこ》へ行き着くまでの筋道は、健三から見ると、むしろ時間の空費に過ぎなかった。しかし彼はそれに対して比田に礼を述べる義理があった。
「いえ何御礼なんぞ御仰《おっしゃ》られると恐縮します」といった比田の方はかえって得意であった。誰が見ても宅《うち》へも帰らずに忙がしがっている人の様子とは受取れないほど、調子づいて来た。
 彼は其所にある塩煎餅《しおせんべい》を取ってやたらにぼりぼり噛《か》んだ。そうしてその相間《あいま》々々には大きな湯呑《ゆのみ》へ茶を何杯も注《つ》ぎ易《か》えて飲んだ。
「相変らず能《よ》く食べますね。今でも鰻飯《うなぎめし》を二つ位|遣《や》るんでしょう」
「いや人間も五十になるともう駄目ですね。もとは健ちゃんの見ている前で天ぷら蕎麦《そば》を五杯位ぺろりと片付けたもんでしたがね」
 比田はその頃から食気《くいけ》の強い男であった。そうして余計食うのを自慢にしていた。それから腹の太いのを賞《ほ》められたがって、時機さえあれば始終|叩《たた》いて見せた。
 健三は昔しこの人に連れられて寄席《よせ》などに行った帰りに、能く二人して屋台店《やたいみせ》の暖簾《のれん》を潜《くぐ》って、鮨《すし》や天麩羅《てんぷら》の立食《たちぐい》をした当時を思い出した。彼は健三にその寄席で聴いたしかおどり[#「しかお
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