りはないがな」
「貴方じゃありません。御兄《おあにい》さんに伺ったんです」
 細君の返事は健三に取って不思議でも何でもなかった。同時に父の意志も兄の言葉も、彼には大した影響を与えなかった。
「おやじは阿爺《おやじ》、兄は兄、己は己なんだから仕方がない。己から見ると、交際を拒絶するだけの根拠がないんだから」
 こういい切った健三は、腹の中でその交際《つきあい》が厭で厭で堪らないのだという事実を意識した。けれどもその腹の中はまるで細君の胸に映らなかった。彼女はただ自分の夫がまた例の頑固を張り通して、徒《いたず》らに皆なの意見に反対するのだとばかり考えた。

     十五

 健三は昔その人に手を引かれて歩いた。その人は健三のために小さい洋服を拵《こし》らえてくれた。大人さえあまり外国の服装に親しみのない古い時分の事なので、裁縫師は子供の着るスタイルなどにはまるで頓着《とんじゃく》しなかった。彼の上着には腰のあたりに釦《ボタン》が二つ並んでいて、胸は開《あ》いたままであった。霜降の羅紗《ラシャ》も硬くごわごわして、極めて手触《てざわり》が粗《あら》かった。ことに洋袴《ズボン》は薄茶色に竪溝《たてみぞ》の通った調馬師でなければ穿《は》かないものであった。しかし当時の彼はそれを着て得意に手を引かれて歩いた。
 彼の帽子もその頃の彼には珍らしかった。浅い鍋底《なべぞこ》のような形をしたフェルトをすぽりと坊主頭へ頭巾《ずきん》のように被《かぶ》るのが、彼に大した満足を与えた。例の如くその人に手を引かれて、寄席《よせ》へ手品を見に行った時、手品師が彼の帽子を借りて、大事な黒羅紗の山の裏から表へ指を突き通して見せたので、彼は驚ろきながら心配そうに、再びわが手に帰った帽子を、何遍か撫《な》でまわして見た事もあった。
 その人はまた彼のために尾の長い金魚をいくつも買ってくれた。武者絵《むしゃえ》、錦絵《にしきえ》、二枚つづき三枚つづきの絵も彼のいうがままに買ってくれた。彼は自分の身体《からだ》にあう緋縅《ひおど》しの鎧《よろい》と竜頭《たつがしら》の兜《かぶと》さえ持っていた。彼は日に一度位ずつその具足を身に着けて、金紙《きんがみ》で拵えた采配《さいはい》を振り舞わした。
 彼はまた子供の差す位な短かい脇差《わきざし》の所有者であった。その脇差の目貫《めぬき》は、鼠が赤い唐辛子《とうが
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