って行った。
健三は彼を玄関まで送り出すと、すぐ書斎へ入った。その日の仕事を早く片付けようという気があるので、いきなり机へ向ったが、心のどこかに引懸りが出来て、なかなか思う通りに捗取《はかど》らなかった。
其所《そこ》へ細君がちょっと顔を出した。「あなた」と二返ばかり声を掛けたが、健三は机の前に坐ったなり振り向かなかった。細君がそのまま黙って引込《ひっこ》んだ後、健三は進まぬながら仕事を夕方まで続けた。
平生《へいぜい》よりは遅くなって漸く夕食《ゆうめし》の食卓に着いた時、彼は始めて細君と言葉を換わした。
「先刻《さっき》来た吉田って男は一体何なんですか」と細君が訊《き》いた。
「元高崎で陸軍の用達《ようたし》か何かしていたんだそうだ」と健三が答えた。
問答は固《もと》よりそれだけで尽きるはずがなかった。彼女は吉田と柴野との関係やら、彼と島田との間柄やらについて、自分に納得の行くまで夫から説明を求めようとした。
「どうせ御金か何か呉れっていうんでしょう」
「まあそうだ」
「それで貴方《あなた》どうなすって、――どうせ御断りになったでしょうね」
「うん、断った。断るより外に仕方がないからな」
二人は腹の中で、自分らの家《うち》の経済状態を別々に考えた。月々支出している、また支出しなければならない金額は、彼に取って随分苦しい労力の報酬であると同時に、それで凡《すべ》てを賄《まかな》って行く細君に取っても、少しも裕《ゆたか》なものとはいわれなかった。
十四
健三はそれぎり座を立とうとした。しかし細君にはまだ訊《き》きたい事が残っていた。
「それで素直に帰って行ったんですか、あの男は。少し変ね」
「だって断られれば仕方がないじゃないか。喧嘩《けんか》をする訳にも行かないんだから」
「だけど、また来るんでしょう。ああして大人しく帰って置いて」
「来ても構わないさ」
「でも厭《いや》ですわ、蒼蠅《うるさ》くって」
健三は細君が次の間で先刻《さっき》の会話を残らず聴いていたものと察した。
「御前聴いてたんだろう、悉皆《すっかり》」
細君は夫の言葉を肯定しない代りに否定もしなかった。
「じゃそれで好《い》いじゃないか」
健三はこういったなりまた立って書斎へ行こうとした。彼は独断家であった。これ以上細君に説明する必要は始めからないものと信じていた。細君
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