商買《しょうばい》であった。
「そんな関係から、段々将校方の御世話になるようになりまして。その内でも柴野《しばの》の旦那には特別|御贔負《ごひいき》になったものですから」
健三は柴野という名を聞いて急に思い出した。それは島田の後妻の娘が嫁に行った先の軍人の姓であった。
「その縁故で島田を御承知なんですね」
二人はしばらくその柴野という士官について話し合った。彼が今高崎にいない事や、もっと遠くの西の方へ転任してから幾年目になるという事や、相変らずの大酒《たいしゅ》で家計があまり裕《ゆたか》でないという事や、すべてこれらは、健三に取って耳新らしい報知《たより》に違なかったが、同時に大した興味を惹《ひ》く話題にもならなかった。この夫婦に対して何らの悪感《あっかん》も抱《いだ》いていない健三は、ただそうかと思って平気に聞いているだけであった。しかし話が本筋に入って、いよいよ島田の事を持ち出された時彼は、自然|厭《いや》な心持がした。
吉田はしきりにこの老人の窮迫の状を訴え始めた。
「人間があまり好過ぎるもんですから、つい人に騙《だま》されてみんな損《す》っちまうんです。とても取れる見込のないのにむやみに金を出してやったり何《なん》かするもんですからな」
「人間が好過ぎるんでしょうか。あんまり慾張《よくば》るからじゃありませんか」
たとい吉田のいう通り老人が困窮しているとしたところで、健三にはこうより外に解釈の道はなかった。しかも困窮というからしてが既に怪しかった。肝心の代表者たる吉田も強いてその点は弁護しなかった。「あるいはそうかも知れません」といったなり、後は笑に紛らしてしまった。そのくせ月々若干《なにがし》か貢《みつ》いで遣《や》ってくれる訳には行くまいかという相談をすぐその後から持ち出した。
正直な健三はつい自分の経済事状を打ち明けて、この一面識しかない男に話さなければならなくなった。彼は自己の手に入る百二、三十円の月収が、どう消費されつつあるかを詳しく説明して、月々あとに残るものは零《ゼロ》だという事を相手に納得させようとした。吉田は例の「なある」と「いかさま」を時々使って、神妙に健三の弁解を聴いた。しかし彼がどこまで彼を信用して、どこから彼を疑い始めているか、その点は健三にも分らなかった。ただ先方はどこまでも下手《したで》に出る手段を主眼としているらしく
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