鍋と茶碗を持って席を立つ前、細君はもう一度こういった。
「その名刺の名前の人はまた来るそうですよ。いずれ御病気が御癒《おなお》りになったらまた伺いますからって、帰って行ったそうですから」
健三は仕方なしにまた眼を開《あ》いた。
「来るだろう。どうせ島田の代理だと名乗る以上はまた来るに極《きま》ってるさ」
「しかしあなた御会いになって? もし来たら」
実をいうと彼は会いたくなかった。細君はなおの事夫をこの変な男に会わせたくなかった。
「御会いにならない方が好《い》いでしょう」
「会っても好い。何も怖い事はないんだから」
細君には夫の言葉が、また例の我《が》だと取れた。健三はそれを厭《いや》だけれども正しい方法だから仕方がないのだと考えた。
十二
健三の病気は日ならず全快した。活字に眼を曝《さら》したり、万年筆を走らせたり、または腕組をしてただ考えたりする時が再び続くようになった頃、一度無駄足を踏ませられた男が突然また彼の玄関先に現われた。
健三は鳥の子紙に刷った吉田虎吉《よしだとらきち》という見覚《みおぼえ》のある名刺を受取って、しばらくそれを眺めていた。細君は小さな声で「御会いになりますか」と訊《たず》ねた。
「会うから座敷へ通してくれ」
細君は断りたさそうな顔をして少し躊躇《ちゅうちょ》していた。しかし夫の様子を見てとった彼女は、何もいわずにまた書斎を出て行った。
吉田というのは、でっぷり肥《ふと》った、かっぷくの好《よ》い、四十|恰好《がっこう》の男であった。縞《しま》の羽織《はおり》を着て、その頃まで流行《はや》った白縮緬《しろちりめん》の兵児帯《へこおび》にぴかぴかする時計の鎖を巻き付けていた。言葉使いから見ても、彼は全くの町人であった。そうかといって、決して堅気《かたぎ》の商人《あきんど》とは受取れなかった。「なるほど」というべきところを、わざと「なある」と引張ったり、「御尤《ごもっと》も」の代りに、さも感服したらしい調子で、「いかさま」と答えたりした。
健三には会見の順序として、まず吉田の身元から訊《き》いてかかる必要があった。しかし彼よりは能弁な吉田は、自分の方で聞かれない先に、素性の概略を説明した。
彼はもと高崎《たかさき》にいた。そうして其所《そこ》にある兵営に出入《しゅつにゅう》して、糧秣《かいば》を納めるのが彼の
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