も真面目《まじめ》に考えられなかった。彼は毎月《まいげつ》いくらかずつの小遣を姉に送る身分であった。その姉の亭主から今度はこっちで金を借りるとなると、矛盾は誰の眼にも映る位明白であった。
「辻褄《つじつま》の合わない事は世の中にいくらでもあるにはあるが」
 こういい掛けた彼は突然笑いたくなった。
「何だか変だな。考えると可笑《おか》しくなるだけだ。まあ好《い》いや己《おれ》が借りて遣《や》らなくってもどうにかなるんだろうから」
「ええ、そりゃ借手はいくらでもあるんでしょう。現にもう一口ばかり貸したんですって。彼所《あすこ》いらの待合《まちあい》か何かへ」
 待合という言葉が健三の耳になおさら滑稽《こっけい》に響いた。彼は我を忘れたように笑った。細君にも夫の姉の亭主が待合へ小金を貸したという事実が不調和に見えた。けれども彼女はそれを夫の名前に関わると思うような性質《たち》ではなかった。ただ夫と一所になって面白そうに笑っていた。
 滑稽の感じが去った後で反動が来た。健三は比田について不愉快な昔まで思い出させられた。
 それは彼の二番目の兄が病死する前後の事であった。病人は平生《へいぜい》から自分の持っている両蓋の銀側時計を弟の健三に見せて、「これを今に御前に遣ろう」と殆《ほと》んど口癖《くちくせ》のようにいっていた。時計を所有した経験のない若い健三は、欲しくて堪らないその装飾品が、何時になったら自分の帯に巻き付けられるのだろうかと想像して、暗《あん》に未来の得意を予算に組み込みながら、一、二カ月を暮した。
 病人が死んだ時、彼の細君は夫の言葉を尊重して、その時計を健三に遣るとみんなの前で明言した。一つは亡くなった人の記念《かたみ》とも見るべきこの品物は、不幸にして質に入れてあった。無論健三にはそれを受出す力がなかった。彼は義姉《あね》から所有権だけを譲り渡されたと同様で、肝心の時計には手も触れる事が出来ずに幾日かを過ごした。
 或日皆なが一つ所に落合った。するとその席上で比田が問題の時計を懐中《ふところ》から出した。時計は見違えるように磨かれて光っていた。新らしい紐《ひも》に珊瑚樹《さんごじゅ》の珠《たま》が装飾として付け加えられた。彼はそれを勿体《もったい》らしく兄の前に置いた。
「それではこれは貴方《あなた》に上げる事にしますから」
 傍《そば》にいた姉も殆んど比田
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