とっ》さんが法律家だもんだから、証拠さえなければ文句を付けられる因縁《いんねん》がないと考えているようなもので……」
「父はそんな事をいった事なんぞありゃしません。私だってそう外部《うわべ》ばかり飾って生きてる人間じゃありません。貴夫が不断からそんな僻《ひが》んだ眼で他《ひと》を見ていらっしゃるから……」
細君の瞼《まぶた》から涙がぽたぽた落ちた。いう事がその間に断絶した。島田に遣る百円の話しが、飛んだ方角へ外《そ》れた。そうして段々こんがらか[#「こんがらか」に傍点]って来た。
九十九
また二、三日して細君は久しぶりに外出した。
「無沙汰《ぶさた》見舞《みまい》かたがた少し歳暮に廻って来ました」
乳呑児《ちのみご》を抱いたまま健三の前へ出た彼女は、寒い頬《ほお》を赤くして、暖かい空気の裡《なか》に尻《しり》を落付《おちつけ》た。
「御前の宅《うち》はどうだい」
「別に変った事もありません。ああなると心配を通り越して、かえって平気になるのかも知れませんね」
健三は挨拶《あいさつ》の仕様もなかった。
「あの紫檀《したん》の机を買わないかっていうんですけれども、縁起が悪いから止《よ》しました」
舞葡萄《まいぶどう》とかいう木の一枚板で中を張り詰めたその大きな唐机《とうづくえ》は、百円以上もする見事なものであった。かつて親類の破産者からそれを借金の抵当《かた》に取った細君の父は、同じ運命の下《もと》に、早晩それをまた誰かに持って行かれなければならなかったのである。
「縁起はどうでも好《い》いが、そんな高価《たか》いものを買う勇気は当分こっちにもなさそうだ」
健三は苦笑しながら烟草《タバコ》を吹かした。
「そういえば貴夫《あなた》、あの人に遣《や》る御金を比田《ひだ》さんから借りなくって」
細君は藪《やぶ》から棒にこんな事をいった。
「比田にそれだけの余裕があるのかい」
「あるのよ。比田さんは今年限り株式の方をやめられたんですって」
健三はこの新らしい報知を当然とも思った。また異様にも感じた。
「もう老朽だろうからね。しかしやめられれば、なお困るだろうじゃないか」
「追ってはどうなるか知れないでしょうけれども、差当《さしあた》り困るような事はないんですって」
彼の辞職は自分を引き立ててくれた重役の一人が、社と関係を絶った事に起因しているらしか
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