でも面倒でもなかった。
「御気の毒ですが出来ませんね」
 二人はまた沈黙を間に置いて相対《あいたい》した。
「じゃ何時頃頂けるんでしょう」
 健三には何時という目的《あて》もなかった。
「いずれ来年にでもなったらどうにかしましょう」
「私もこうして頼まれて上《あが》った以上、何とか向《むこう》へ返事をしなくっちゃなりませんから、せめて日限でも一つ御取極《おとりきめ》を願いたいと思いますが」
「御尤《ごもっと》もです。じゃ正月一杯とでもして置きましょう」
 健三はそれより外にいいようがなかった。相手は仕方なしに帰って行った。
 その晩寒さと倦怠《けんたい》を凌《しの》ぐために蕎麦湯《そばゆ》を拵《こしら》えてもらった健三は、どろどろした鼠色のものを啜《すす》りながら、盆を膝《ひざ》の上に置いて傍《そば》に坐っている細君と話し合った。
「また百円どうかしなくっちゃならない」
「貴夫《あなた》が遣《や》らないでも好いものを遣るって約束なんぞなさるから後で困るんですよ」
「遣らないでもいいのだけれども、己《おれ》は遣るんだ」
 言葉の矛盾がすぐ細君を不快にした。
「そう依故地《えこじ》を仰《おっ》しゃればそれまでです」
「御前は人を理窟ぽいとか何とかいって攻撃するくせに、自分にゃ大変形式ばった所のある女だね」
「貴夫こそ形式が御好きなんです。何事にも理窟が先に立つんだから」
「理窟と形式とは違うさ」
「貴夫のは同なじですよ」
「じゃいって聞かせるがね、己は口にだけ論理《ロジック》を有《も》っている男じゃない。口にある論理は己の手にも足にも、身体《からだ》全体にもあるんだ」
「そんなら貴夫の理窟がそう空っぽうに見えるはずがないじゃありませんか」
「空っぽうじゃないんだもの。丁度ころ柿の粉《こ》のようなもので、理窟が中《うち》から白く吹き出すだけなんだ。外部《そと》から喰付《くっつ》けた砂糖とは違うさ」
 こんな説明が既に細君には空っぽうな理窟であった。何でも眼に見えるものを、しっかと手に掴《つか》まなくっては承知出来ない彼女は、この上夫と議論する事を好まなかった。またしようと思っても出来なかった。
「御前が形式張るというのはね。人間の内側はどうでも、外部《そと》へ出た所だけを捉《つら》まえさえすれば、それでその人間が、すぐ片付けられるものと思っているからさ。丁度御前の御父《お
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