ている間は相場師の方で儲《もう》けさせてくれるんですって。だから好《い》いけれども、一旦役を退《ひ》くと、もう相場師が構ってくれないから、みんな駄目になるんだそうです」
「何の事だか要領を得ないね。だいち意味さえ解らない」
「貴方《あなた》に解らなくったって、そうなら仕方がないじゃありませんか」
「何をいってるんだ。それじゃ相場師は決して損をしっこないものに極《きま》っちまうじゃないか。馬鹿な女だな」
 健三はその時細君と取り換わせた談話まで憶《おも》い出した。
 彼はふと気が付いた。彼と擦《す》れ違う人はみんな急ぎ足に行き過ぎた。みんな忙がしそうであった。みんな一定の目的を有《も》っているらしかった。それを一刻も早く片付けるために、せっせと活動するとしか思われなかった。
 或者はまるで彼の存在を認めなかった。或者は通り過ぎる時、ちょっと一瞥《いちべつ》を与えた。
「御前は馬鹿だよ」
 稀《まれ》にはこんな顔付をするものさえあった。
 彼はまた宅《うち》へ帰って赤い印気《インキ》を汚《きた》ない半紙へなすくり始めた。

     九十八

 二、三日すると島田に頼まれた男がまた刺《し》を通じて面会を求めに来た。行掛り上断る訳に行かなかった健三は、座敷へ出て差配じみたその人の前に、再び坐《すわ》るべく余儀なくされた。
「どうも御忙がしいところを度々《たびたび》出まして」
 彼は世事慣れた男であった。口で気の毒そうな事をいう割に、それほど殊勝な様子を彼の態度のどこにも現わさなかった。
「実はこの間の事を島田によく話しましたところ、そういう訳なら致し方がないから、金額はそれで宜《よろ》しい、その代りどうか年内に頂戴《ちょうだい》致したい、とこういうんですがね」
 健三にはそんな見込がなかった。
「年内たってもう僅《わず》かの日数しかないじゃありませんか」
「だから向うでも急ぐような訳でしてね」
「あれば今すぐ上げても好《い》いんです。しかしないんだから仕方がないじゃありませんか」
「そうですか」
 二人は少時《しばらく》無言のままでいた。
「どうでしょう、其所《そこ》のところを一つ御奮発は願われますまいか。私《わたくし》も折角こうして忙がしい中を、島田さんのために、わざわざ遣《や》って来たもんですから」
 それは彼の勝手であった。健三の心を動かすに足るほどの手数《てかず》
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