き易《か》えになすった方が好くはありませんか」
健三はその書付を慥《たしか》に覚えていた。彼が実家へ復籍する事になった時、島田は当人の彼から一札入れてもらいたいと主張したので、健三の父もやむをえず、何でも好いから書いて遣れと彼に注意した。何も書く材料のない彼は仕方なしに筆を執った。そうして今度離縁になったについては、向後《こうご》御互に不義理不人情な事はしたくないものだという意味を僅《わずか》二行|余《あまり》に綴《つづ》って先方へ渡した。
「あんなものは反故《ほご》同然ですよ。向《むこう》で持っていても役に立たず、私が貰《もら》っても仕方がないんだ。もし利用出来る気ならいくらでも利用したら好いでしょう」
健三にはそんな書付を売り付けに掛るその人の態度がなお気に入らなかった。
九十六
話が行き詰るとその人は休んだ。それから好い加減な時分にまた同じ問題を取り上げた。いう事は散漫であった。理で押せなければ情《じょう》に訴えるという風でもなかった。ただ物にさえすれば好いという料簡《りょうけん》が露骨に見透かされた。収束するところなく共に動いていた健三はしまいに飽きた。
「書付を買えの、今に迷惑するのが厭《いや》なら金を出せのといわれるとこっちでも断るより外に仕方がありませんが、困るからどうかしてもらいたい、その代り向後《こうご》一切無心がましい事はいって来ないと保証するなら、昔の情義上少しの工面はして上げても構いません」
「ええそれがつまり私《わたくし》の来た主意なんですから、出来るならどうかそう願いたいもんで」
健三はそんなら何故《なぜ》早くそういわないのかと思った。同時に相手も、何故もっと早くそういってくれないのかという顔付をした。
「じゃどの位出して下さいます」
健三は黙って考えた。しかしどの位が相当のところだか判明《はっきり》した目安の出て来《き》ようはずはなかった。その上なるべく少ない方が彼の便宜であった。
「まあ百円位なものですね」
「百円」
その人はこう繰り返した。
「どうでしょう、責《せ》めて三百円位にして遣《や》る訳には行きますまいか」
「出すべき理由さえあれば何百円でも出します」
「御尤《ごもっと》もだが、島田さんもああして困ってるもんだから」
「そんな事をいやあ、私《わたし》だって困っています」
「そうですか」
彼の語気は
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